カナダの首都オタワはオンタリオ州のはしっこ、川をはさんでケベック州のガディノー地区との境に位置しています。オンタリオ州は昔からイギリス系住民が多く暮らしていて、その州都はカナダ最大の都市トロントです。一方のケベックはフランス系住民が多い州で、「北米のパリ」とも言われるモントリオールが州都です。そしてケベックはカナダ10州の中で唯一、フランス語を公用語としています。のちにカナダとなる北の大地に最初に入植を始めたのはフランスでした。彼らは今のケベックシティに木造の砦を建設します。負けじとイギリスもカナダに進出。最後はケベックシティのアブラハム平原での戦いでイギリスが勝利し、ここからカナダはイギリスの植民地としての歩みを始めます。ところがケベックにはたくさんのフランス系住民が暮らしていたため、その後のカナダにとってイギリス系、フランス系両住民の融和を図ることは常に大きな政治課題でした。なにしろ当時は、首都も4年ごとにトロントとケベックシティを行ったり来たりしたほどです。


そして1857年、本国のヴィクトリア女王の裁断で、首都はトロントでもケベックシティでもない、当時、材木の集積場だった「きこりの街」オタワに決まります。イギリス系エリアの一番はしっこ、川を渡ればフランス系エリアという絶妙な場所にあったオタワが首都になったのです。このことは当時、コンプロマイズ、 「公平なる妥協(a fair compromise)」と呼ばれました。そしてもう1つ。オタワが首都に選ばれた時、カナダのある新聞記者はこの街を自嘲して「最も北極点に近い材木村」と呼びました。反対にアメリカの新聞記者は、オタワを攻撃しようとしても、アメリカ軍は森の中で迷ってしまう、と皮肉交じりに語っています。寒い北に位置する「きこりの街」は、そう簡単にアメリカに攻め込まれない防衛上の強みを持っていました。
ケベックシティにはセントローレンス側をはさんだ南、アメリカに向けて大砲のレプリカが設置されているのを見ても、当時のカナダの仮想敵国がアメリカだったことが分かります。イギリス系、フランス系のどちらからも不満が出ず、アメリカ軍を森の中で迷子にしてしまう首都オタワ。「のんびり」「こじんまり」という言葉がぴったりのオタワですが、実は深謀遠慮の固まりのような一面もあるのです。
