カナダを彩る作家(3) A Doctor in the West - Morris Gibson
あしびきのロッキー山の木枯しは 心の内を吐きて飛び交う
カルガリー冬季オリンピックが開かれた年、1988年のカルガリーは石油産業がピークに達する直前であった。当時、アルバータ州に埋蔵されるオイルの埋蔵量は世界中が今迄に掘り起こした石油の数倍にも当たると言われていた。当時カルガリーは、カナダの大都市トロント、モントリオール、バンクーバーに比較すると未だ未だ未開都市で、「ヨーグルトとカルガリーの違いはヨーグルトにはCulture(文化/培養菌)が有る」、つまりカルガリーには文化がないと冗談めかして言われている程であった。しかし石油は当時絶対的な必需品であり、クロンダイク時代に金を求めて人口移動があったと同様、石油を求めて多くの石油会社がカルガリーに大移動をした時代であった。
我が夫の石油会社も石油の埋蔵地かつ税金が安いと言うので他の石油会社に遅れを取らじと、本社をカルガリーに移した。当時カルガリーは我々に取り馴染みが薄く、裕福な家族が東の大都市から西のバンフにスキーに行く、その近くにある街ぐらいの観念しかなかった。本社移転に伴い会社でオリエンテーションがあり、カルガリーは乾燥した街で、雪はシャベルでかくのではなく箒で履き、カナダで一番晴れの日が多く一年333日晴れたという記録があると聞いた。これらは事実で、バンクーバーの木は5年で大木に成長するが、湿気の無いカルガリーの木は20年かかり、カルガリーの雪は軽く乾燥していて、フッと吹くと雪の結晶を美しくかもし出しながら手のひらから飛び散る。
その時に夫からモリス・ギブソンの「西部の医師」と言う本を読むように勧められた。この本は1983年に出版されているが、この医師がカルガリー郊外のオーカトークにイギリスから移民したのは1955年なので、今から67年も昔のことであった。
夫婦共にイギリスで開業医として経験を深める最中、学会などで北アメリカの医師に会うごとに自由と広大な新世界に住みたいと言う希望が芽生える。医師夫婦は11歳の一人娘を伴い、アルバータ州に移民を決意する。カナダはご存知の通り未だ若く、柔軟性のある国である。とは言えど、何故当時医師の居付かない人里離れたオーカトークのような村を選んだかは説明不十分であるが、カナダに着き、州都エドモントンでオーカトークで開業したいと語ると、何度と無くエドモントンに大学病院やクリニックが沢山あるから、オーカトークの様な辺鄙な土地に行かず、アルバータ州の都会に行く様にと諭された。もし、他の医師が今までしてきたようにオーカトークに辟易したら、もっと大きな便利な街に仕事は沢山あるからいつでも戻ってくるようにともいわれた。にも関わらずギブソン医師は頑固に僻地に向かいそこに居座ることになる。
この本には、医師が長く留まらないこの不便な土地に、どうしてもこのイギリスからの医師に留まって欲しいと願う村人が古い一軒建の小学校を診療所件医師の家族の家に改修した。ここで人間のみならず牛や馬の治療にも関わり、雪深い零下30度の木枯らしの吹く、道さえ定かならぬ患者を訪問する様子が医師自らの手でユーモラスに描かれている。
今こそオーカトークはカルガリーの一部となり近代化されたが、当時のオーカトークはこの作品から押して知るべしである。ちなみに私はダイアナ妃が亡くなったニュースが入った日にオーカトークのよく知られたフレンチレストランで数人の友人と昼食を取っていたのを覚えている。すでに、モリソン医師がきた当時より遥かに発展していた。オーカトークはカルガリーの発展と共に現在では最も人口の多いベッドルームコミュニティーとして知られ、その変化の進度は驚くべきである。
今こそ120mp/kmの高速道路を走るとカルガリーへ15分足らずであるが、当時はオーカトークから患者をカルガリーの病院に舗装されていない道を運ぶのは大変なことであった。
モリソン医師は以後17年ほどオーカトークに留まり、村人に慕われ、その後近代化と石油故の人口移動で数々の学校が建てられ、多くの小学校、中学校、高校が彼の名に因んで、「Doctor Morris Gibson school」 と名付けられて現在に至る。カルガリー大学に医学部が設置されると同時に、家庭医学の部長として採用されて、引退するまでカルガリー大学に留まり、引退と共に冬の気候が暖かいバンクーバーへ移り夫婦共に現在未だ健全である。
当時オーカトークは広大な土地にポツポツとある農家、短い夏は晴れの日が多く美しく比較的災害の少ない故に人々はのんびりとし、フレンドリー、しかしながら長い冬は過酷な土地柄故、人々は互いに助け合う風習が自然に身についていた。現在でもその習慣が居座り、ボランティアを募るとカナダ最高の数のボランティアが集まるので有名である。この地で雪に埋もれ道路が定かでは無い、遠い道を小さな車で命を懸けて家庭訪問をする、並大抵では無い新開地のドクターの努力と忍耐がユーモアたっぷりに不平も無く書かれているのには頭が下がる想いである。
獣医が忙しい折には牛や馬に蹴飛ばされるのを覚悟で、注射もする、家畜のお産も手伝うと言う関係上有名なカルガリーのスタンピードのお祭りには医師夫婦再度招待されている。スタンピードは世界有数の戸外で行われるショーとして知られているカウボーイの祭典であり、10日間続く。カウボーイのみならずカルガリー住民は全てが、ステタソンと呼ばれるカーボーイの帽子を被り、カーボーイ特有のシャツを着、ジーンズを履き、皮のブーツを履く。普段はバシッとしたスーツを着ている弁護士も会社員もその10日間はカウボーイ姿で出勤する。このお祭りの様子もモリソン医師は巧みにこの本の中に取り入れる。因みに現在でもこの風習は維持されている。大学でさえも教授たちは皆色取り取りのチェックのシャツ、ジーンズ、又はデニ ムのスカートに白いカーボーイハットで授業をする。カーボーイブーツは踵がたっぷり5cmは有るので殊に背の低い人に取っては背が高く見える十日間である。
ついでにカナダの医療制度は、本当にここに住んでいて良かったと思う程良い制度である。最もコロナの後は、他国に劣らず医師、看護師、施設の不足に悩まされているが、医療看護施設、制度においては非常に発達している。夫が集中治療室に入院していたときに病室の写真を撮って心臓外科医をしている日本の従兄弟に送った折に、彼はカナダの医療室の発達に目を見張ったり、感嘆した程であった。毎朝患者の家族を含めて、医師たちや、医学生が、一室に集まり、患者の様子や、治療過程などを話し合った。家族が誰よりも患者についての知識が深いとみなしているからである。それも全て国払いで、十年前一日$20,000の個室の治療室に2週間いて治療費も含めて全く無料であった。いつぞや、母が住んでいた東京のクリニックに私が行ったとき、カナダの習慣で、お金を払わずに母の家に戻り、いくらだったと聞かれて、ハッと気がついて急いで逆戻りをして支払ったのを覚えている。特別な治療はともかく歯医者と、薬品以外はお金を払った経験がない。その点カナダは医療天国と言えるだろう。「カナダ医療は国民皆保険制度を採用しており、原則として患者の自己負担はなく、全てを税財源で公的に負担している」(在カナダ日本国大使館、世界の医療事情より抜粋) であるから、カナダに移民する医師は、医療代が支払われないと心配することはないが、他国の学位が簡単に通用するわけではない。他国で医師の免許をとっても (イギリス連邦に属している国によってはは免除される可能性がある)、カナダでの医学部で、免許を取り直さねばならない。カナダの学生が医学部に入る時はBAを獲得した後、BAの成績と面接で医学部に入る。それも科に関わらずBAを取っている通常4年間にボランティアで、あるいはアルバイトで医学、病院及び介護関係の場所で働いた経験者のみが、医学部に入れる仕組みである。つまり医師となるには一般の知識及び介護福祉関係の知識と経験も要求される。
コロナ禍で医学の世界も、患者の苦労も計り知れない。然しこの本「西部の医師」を読むと、どの時代にもどの職業にもどの場所にも計り知れぬ苦労はあり、一歩前進、一歩後退があり、その中を人類は生きていて、人間は生を受ける限り大なり小なり何らかの貢献を社会にしていることを痛感させられる本である。
文:ライリー洋子